JFE奥草津休暇村小史
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群馬鉄山としての誕生

第2次世界大戦の終盤であった昭和18年、旧日本鋼管(現JFE)が鉱業権を取得。翌19年12月には、輸送手段としての鉄道も整備され、旧日本鋼管鉱業(現JFEミネラル)により操業が開始される。

 
 
終戦〜そして操業停止へ

昭和20年1月2日初出荷を皮切りに、4月には旧八幡製鐵所への鉄鉱石の出荷が始まる。戦局はさらに逼迫し、爆撃を受けた交通手段が遮断され、輸送力の低下、労働力不足も深刻化する。同年8月15日の終戦をもって、全山の操業はついに停止する。

 
 
戦後の鉄山

昭和21年4月に長野原線(現吾妻線)の客車の運転も始まり、同年6月出荷の再開となる。昭和22年6月の埋蔵鉱量は褐鉄鉱190万トン(Fe50%以上)、哲明礬石(ジェロサイト)56万トンと算定されたが、褐鉄鉱のうちかなりの量がFe50%を下回る低品位鉱で、そのままでは販売が難しい事が判明した。このため鉱山の延命とコスト引下げをねらいとして、昭和26年12月に太子の焼結工場の稼動が始まった。

 
 
群馬鉄山の壮年期と変遷

昭和24年7月初めて月産20000トンを突破、生産性は著しく向上した。日鉄鉱業(株)の釜石鉄山に次ぐ国内第2の鉄鉱山と称されるに至る。

 
 
群馬鉄山の終山

鉱床の老化、生産量の低下を受け、昭和40年3月に操業を停止し、約70名の従業員出席のもと、元山神社にて終山式が行われた。昭和19年から20余年もの間、戦後日本の鉄鋼業再建と地域の振興に大きく貢献した群馬鉄山はその使命を終えた。

 
 
群馬鉄山の終山

昭和40年以降、鉄山の「森林再生」に焦点を置き、地域振興を踏まえた厚生施設機能を合わせ持つ休暇村として現在に至る。

 
 
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