紫陽花の薄紫がこぬか雨に煙る、
とある6月の午後――。
東京・南青山の静かな路地に建つ、
リストランテ「カ・アンジェリ」を訪ねました。
ドアを開ければ、店内のそこここに
真っ赤なトマトがいくつもの大皿に盛られており、
太陽の恵みに満ち満ちているのでした。
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自然に“順応”するって?
ランチタイムとディナータイムのわずかなインターバルに、佐竹シェフから伺ったお話は、実に示唆に富むものでした。
佐竹シェフの「環境問題」に対するお考えは、深く、総合的です。それを少しずつ紐解いていただきました。
――環境を考えるとき、シェフはどんな暮らしを「理想」だと思いますか?
僕の理想は「横穴式住居」。「竪穴式住居」には文明があるけれど、文化がない。逆に、「横穴式住居」には文化があるけれど、文明はない。文明というのは、暮らしを効率的にし、利便性を向上させるための、技術やインフラストラクチャーのこと。一方、文化というのは、暮らしを楽しもうとする気持ち、所作のことじゃないかと思います。
例えば、あなたが京都に行くとするでしょう。新幹線に乗れば東京からは3時間弱で着く。これが、文明。でも、文明には代償があって、この3時間の運行のために大量のエネルギーが消費されています。片や、文化はと言えば、あなたが「京都に行きたいな」と思ったときに、部屋に京都らしいしつらえをしてみたり、晩ご飯には京野菜に見立てた、花形のニンジンを煮てみる。すると楽しくなるじゃない? それが文化。 文化は、人間の哲学につながるものだと思います。無くても生きていけるけれど、あれば生活がより豊潤になる。
僕はよく、人間は「崇高」になるほど、神様から遠くなるんじゃないかと思います。僕をダメにしたのは、この文明だなぁ……。誰が京都まで3時間足らずで行かせてくれって言ったんだ、歩いていった方がよっぽど気持ちがいいって。だから、一番「堕落」した形でいよう、自然からの「恩恵」だけで暮らしていきたいと、思う。それを実現しているのは、ネイティブインディアンでしょうね。僕はインディアンに生まれたかったな、と思うことがありますよ。インディアン、インディオ、イヌイット、チベット……みな同じように蒙古斑を持ち、かつて環太平洋を歩いて渡っていった人たちです。
よく「Save the earth」と言うでしょう? この言葉は間違っていると思いませんか。誰が地球を守れるんでしょうか。「地球を守るために」を「自分のために」と言い換えない限り、絶対に正しい方向にはいかないと最近、僕は思いいたりました。CO2の問題一つとっても、「地球を守るためにCO2を出さない」と言うでしょう。でも、地球なんかCO2だらけになろうが、それで人間がいなくなろうが、壊れません。地球の発生から超新星爆発にいたるまでの長い長い歴史のなかで、人間の歴史なんて針の先ほどのこと。そこで右往左往しているだけです。つまり、CO2を減らすのは人間のためなんです。「自分のためにCO2を減らそう」「自分のためにゴミを出すのを止めよう」と言えば、もう少しみんなの意識が変わるんじゃないでしょうか。逆に、そう意識しない限り、変わらないような気がします。
――シェフは食文化を担うお仕事をしておられますが、ご自身では「食」をどのように捉えておられますか?
この仕事を始めたばかりのころは、どうやって自分の持っている技術を効率よく提供できるかとばかり考えていたんですよ。20代のことです。自分の生活をより豊かにしようと思い、そのバロメーターは物質でした。だから、より大きな車を、より大きな家をという欲を持っていたんです。そして、一生懸命仕事をしていくと、「なるほど、金儲けとはこういうことか」とわかってきた。それが、この「カ・アンジェリ」という店を始める前に、六本木で17年間やっていた「ヂーノ」という店です。ところが、この店で効率を追求しているうちに、お金では買えないものも得ていくことになったんです。
店は、色々な意味で注目していただき、カーター元米大統領が現職のときに来店されたり、松本幸四郎一家が家族連れでいらしたり、グレゴリ―・ペックもいらっしゃった。シドニー・ポワティエに握手をしてもらったときは、手が震えましたよ。そういうお金では買えない経験をするうちに、「僕の選んだ仕事はなんて素晴らしいものなんだろう」と感じるようになったんです。
そして、次第に会いたいと思う人が来店してくださるようになりました。その中のお一人が畑正憲さん(註:作家。愛称・ムツゴロウさん。北海道の「動物王国」は有名)です。ちょうどそのとき、僕はテレビで畑さんが発した一言から、自然について考えていました。
それは、畑さんが「動物王国」をつくられて受けたインタビューでした。インタビュアーは「どうやって、北海道の厳しい自然を克服されたんですか」と尋ねました。すると、畑さんは怒りだした。「自然を“克服”できるわけはないでしょう。“順応”したんですよ」と。
その言葉が、僕の胸に響きました。「自然に“順応”するってどういうことだろう」と。>>次のページ