自分で掲げた努力目標や他人に押し付けられた決まりごとに縛られ、終にはどうにもならなくなって、仲間内で批難し合うというのでは世界というハードな競争シーンでは勝ち残れません。これからは国単位での団結した判断と主張を持ち、キリギリスたちと対等にやりあっていける交渉力も大いに問われてくると思います。
編集部:しかし、日本人として永年にわたって継承してきたDNAである思考回路を自分の意志で変換するのはなかなかの力仕事ではないでしょうか?
安井氏:人間と猿の一番の違いは何だと思いますか? 私は“過去の記録を取るか?”、“取らないか?”という点にあると考えています。人間は記述、口述、録音、撮影など、さまざまな手段を用いて「記録する行為」をします。猿がそんな風に記録を取ることはないでしょう。私たち人間にとって「記録」は物事を検証し、判断する上で非常に大切な要素となります。しかし、史実といわれる記録から分かるように、そこに残されている記録が本当に真実であるかどうかは分からないのです。たとえばレオナルド・ダヴィンチという人、彼がいつ頃、どんな時代に生きて、どんなことをした人なのか、“アイコン(像)”というレベルでは知られていますが、本当はどんな人物だったのか、真相は誰にも分かりません。「記録」とは絶対的なものではなく、相対的。見方によって変わり得るものです。
つまり、起こった事実をどう理解し、分析し、未来に向かって活かしてゆくか、全てここにかかっていると思うのです。
さきほどの「アリとキリギリス」の話に再び戻しますと、キリギリス族は未来に向かって都合良く、かつ効率の良いシステムを構築するための分析材料として、「記録」という作業を大変熱心に行ってきたと言えるでしょう。また、それを他者に対しての交渉手段として持ち込むことも彼らの常套的なスタイルでした。一方アリはそれらを真面目に受けとめ、一生懸命無理してしまう。ですからこれから今までとは一線を画し、“アリはアリらしく”アリの物差しで未来思考の「記録」を構築していけばいいのです。
編集部:絶対的な判断基準というものはこの世には存在しないのだから、“新たな判断基準を自分の立場から構築すべし”ということですね。
安井氏:さらに一歩踏み込んで申し上げるなら、他者との違いのみならず、自分の中でも判断基準は多様に変化、変容してゆくことを自覚すべきでしょう。自分ひとりのための判断、家族も含めた“家”としての判断、さらに会社としての判断、さらに地域、国家、世界、そして地球…。まさに座標軸の設定が変化すると、評価されるべき判断は一個人の中においても、微妙に変化していくのです。そして地球は一番遠いところに位置する関係とも言えるのです。
環境問題を論じる際によく“持続可能性”という言葉が使われますが、私たちはいつまでの、どこまでの持続に対して責任を持てば良いのでしょう? 子供や孫の代までですか? それとも数百年後の地球のことまで考えなければいけないのでしょうか? 膨大な情報や論議が飛び交う中、私たちが何を優先にして考え、結論を出すことができるか。それこそが未来に向き合う際の鍵になるのではないかと考えます。