編集部:まずは、“評価基準の共有し、それから議論すべし”ということですね。 確かにCO2削減の議論についても、様々な削減目標と期限が数字として取り沙汰されていますが、それらの数字の算出根拠はどこにあるのだろうか? と素朴な疑問を感じます。
安井氏:今回上がっている数字は或る意味において“特に根拠はない”と言うのが正直なところではないでしょうか? 世界に広い視野で臨むと、すぐお分かりいただけることですが、環境問題は地球環境の汚染や崩壊への純粋な危機意識からだけではなく、ある種の政治的なレジームとして利用されてきた事実があります。1989年にはベルリンの壁が、1991年にはソ連が崩壊し、それまでの冷戦構造が崩れた後、アメリカによる勢力拡大への対抗手段のひとつとして環境問題が大きく脚光を浴びてきたという見方もできるでしょう。リオのサミットはそうした論理の展開からは象徴的な出来事だったと言えるかもしれません。
事実、私たち人類が抱えている最重要課題は環境問題だけではありません。世界規模で現状を直視すれば、貧困や人口問題、食糧、衛生など非常にたくさんの問題が存在し、それらは深い部分で非常に複雑にリンケージしています。
環境問題は、その他のさまざまな課題の中で、優先順位としての“落としどころ”をどこへ設定するか、という判断が作動することになるのだろうと予想しています。
例えば、一説によれば2070年から2090年あたりが地球温暖化のピークであろうと言われています。状況によってはこのピークはもう少し早くやってくるかもしれません。地球の平均気温が今よりも3度上昇すると人類存続が危ぶまれますが、2.5度なら大丈夫かもしれない、その0.5度の差というのは不確かであると同時に、考え方によっては判断が変わり得る境界線と見ることもできます。つまり、2.5度の範囲内での気温上昇なら致しかたないという決断の上、CO2の排出量が増えても発展途上国の経済を発展させ、貧困を解消させ、人口問題の解決への糸口とした方が人類全体にとっては良いのではないか、という判断も成立するという現実です。日本ではともすると、「環境!」「環境!」と単体での議論がなされがちですが、より多様で、異なる問題との関連性を考慮する複眼思考と、さらには社会全体の発展を配慮するバランス感覚も求められているのではないでしょうか。
編集部:日本は環境技術の蓄積、さらには『京都議定書』をはじめとし、CO2の削減に対して世界を先導し得る立場にあると言えます。その立場を活かし、世界の国々と然るべき折り合いをつけてゆくことはできるでしょうか?
安井氏:日本は日本なりの価値基準での主張を持ち、もっと世界に向けて発言していくべきだと、私は常々考えています。
日本人はどうも自分たちの価値観を交渉相手に主張することが苦手で、明治以来、欧米の価値観の優位性を鵜呑みにし、従順に追随してしまう国民性から脱却できずにいます。事実、かつて日本で成功した人はいち早く欧米からの新しいシステムやルールを導入し、それを広めて成功したというパターンがありました。
しかし21世紀にもなり、既に最初の10年も経った訳ですから、そろそろ日本人もこんな風な主張をしてみたら良いのではないでしょうか? 「日本はCO2の削減率は決められた目標値に対して○%達していないが、その○%分はCO2削減技術を他国へ供与し、削減に貢献しています」という具合です。
世界であらゆる主導権を握っている欧米の国々というのは概してキリギリス的で、合理主義的かつ大変賢く、交渉や取引の才が長けています。それに比べて私たち日本人はどう考えてもアリでしょう(笑)。一生懸命、コツコツと真面目に働きますが、他者との関係性の中で自己主張をし、権利を守るという交渉ではお世辞にも要領が良いとは言えません。私はここで、“アリたちにキリギリスになれ”と言っているわけではありません。アリはアリらしく、キリギリスに向かって先ほど申し上げたようなオリジナリティのある論理を展開すれば良いと思うのです。