編集部:“「わからない」ことを知る”というお話は衝撃的でもありましたが、こうしてお話を伺っていると、ごく自然な流れとして受け入れられます。さきほどのお話の中で“慎む”という言葉が出てきましたが、これについてもう少し詳しくお話をいただけますか?
立松:複雑なメカニズムで動いている地球、そのダイナミズムは良くも悪くもひとりの人間の思考や力でどうにかなるようなものではありません。ただ根源的な意味合いにおいて、地球全体と自分の生活としっかり繋がっているという事実をわきまえることが大切なのではないでしょうか? 僕たち人間が無意識にやってきたことが、結果として地球に大きな害を及ぼしていることはたくさんあります。これをささやかでも抑制するためには、身を慎んで静かに生きることがひとつの策ではないかと僕は思うんです。
『法華経』に“「欲」を小さくして、「足る」を知る”という文言があります。法華経が書かれた紀元一世紀頃*1の世界というのは、インド社会とアラブ社会の交易が始まり、海路や陸路がつながってモノの移動が盛んになった時代でもあります。『法華経』はモノが増え、豊かな生活を送るようになる人間に宗教的に警鐘を鳴らしたお経だと僕は思います。当時の状況は僕たちの状況、つまり“今”と非常によく似ています。2千年前の人たちも「モノ」への欲求は捨てられなかったし、その後、人間の歴史はどんどん
物質主義へと進んでいきます。むしろ、それができていたら環境問題なんていうものは起きていなかったでしょう。人間はずっと同じことを繰り返しているのです。ただし「世界」の規模は、2千年前と今では大きく違います。今は宇宙にまで僕たちの「世界」が広がって行きつつありますから。
編集部:環境問題は“人間の生き方そのもの”を問うものだと感じていますが、現代において宗教的な考えが果たす役割はどのようなものだとお考えですか?
立松:人間の精神を抑圧するのではなく、言い聞かせ、理解させる。“慎む”ということを会得する上でのひとつの力は、宗教心ではないかと僕は考えています。宗教心というのは生活の中から自然と出てくる、緩やかな心の動きです。例えば“お天道様に頭を下げる”は、そういう気持ちが呼び起こす宗教心だと思います。
私は数年前から百霊峰を回っています。かつて行者が歩き、廻っていた場所を辿る山登りなのですが、行者が行くところは泉だったり、岩だったり自然のエネルギーに満ちたところばかりです。日本人は古くから自然に対する深い畏敬の念を持っていました。従って日本本来の山登りは西洋的なアルピニズムとは根本的に違います。