五感が目覚める森の時間
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第二部 森が与えてくれる創造的な時間

生きる力〜五感の再生〜森

編集部: 昨日、「環境教育」プログラムに参加させていただき、目隠しで森を裸足で歩いたのですが、いつもと全く違う時間の感覚を味わいました。

倉 本: 現在、我々が「情報」と言ってありがたがってるもののほとんど目から入ってくるものです。ものをじっくり考える時、僕らはしばし目を閉じますよね。自然塾のプログラムで、「今、自分の耳はどんな音を聞いているのだろう?」という体験実習を必ずします。まず、目を開けた状態で「聞こえる音」を指で折って数えさせ、次は目を閉じて再び「聞こえる音」を数えていただく。「目を閉じる」と、「目を開けていた時」の倍近くの音を僕らは聞き分けることができます。「視覚」は我々の日常で使われる五感の中で、確かに突出した機能を果たす優れたアンテナです。でも人間は「視覚情報」に頼り過ぎた結果、本来持っていた五感による知覚能力の調和が著しく崩れてしまった。「視覚」、「聴覚」、「触覚」、「味覚」、「臭覚」、いずれも生きていく上で重要な情報収集手段です。しかし、現代生活では、その比重が視覚情報に集中するあまり、その他の四覚が退化してしまう傾向にあるんです。だからここで僕たちは、なんとしても四覚の退化を防がないと、脳全体が「ゲーム脳」になってしまう恐れがあるんです。この「ゲーム脳」とは、痴呆とか認知症の脳に非常に近似した事態の脳であると、医学的にも報告されています。 僕は富良野に移り住んでから、家の塀の外を動物が歩く音で夜中でも目が覚めるようになった。真っ暗にして寝ていても、ぱっと目が覚める。すると、何かがパタパタと動いている。 森に住むようになって三、四年経ったころでした。物音に反応して大きく耳が動くので、目の奥の筋肉が引っ張られて目が覚めてしまうんです。寝てても耳が動く、これはまさに聴覚のなせる業、この感覚が自分の身体に戻って来たことに、僕は大いに感動しました!

編集部: 倉本さんの中の「生きる力」のひとつがその時再生したってことですか?

倉 本: 我々の生活って、24時間のうち10時間は闇の中にあります。でも、「闇」ってものの存在をみんな忘れかけている、大自然の中の本当の「真っ暗闇」を。
都会の闇は「電気をつけないと危険」というレベルですが、ここでは違う。「本当の真っ暗闇」がある。しかも、自然の中は危険がいっぱい存在している。何か違うものが匂う、誰かが自分に向かって近づいてくる、風がこちらの方角から吹いてくる、つまり五感をフルに使い、嗅覚、触覚、味覚、聴覚、視覚が送り出す信号をしっかり受信することで、はじめて生きてゆける。実際、人間の脳は五覚全部をフルに使ったときに「ドーパミン」という成分を分泌し細胞が活性化するそうです。本来人間はそういう感覚によって生きてきた生物なんだけどあまりにも視覚に頼りすぎちゃった結果、今や「怪物X」になりかけているんです。

「時計」と「時間」は違う
編集部: さて先ほどから「時間」への深い考察が感じられるのですが、倉本さんにとっての「時間」とはどのようなものなのでしょうか?

倉 本: まず一日の時間ですが、日が昇って来たのが朝であり、日が沈むのが夜。そして「時計」と「時間」は違います。「時間が時計だ」、「時計が時間だ」とみんな錯覚しているようだけれど時間とはもう少し流動的なものだと僕は思っています。夏になると時間は僕らに早く朝を連れて来るし、夜はちょっと遅くまで待っていてくれる。一方、「時計」というのは、人と人とが待ち合わせをするとか、労働時間を規定するとか、人間社会を制約するための「時」というものを定義するもの、つまり、社会生活の「約束事の手段」にすぎないはずなんです。

これは僕自身がオーストラリアでの「1週間カヌー・ツアー」に参加し、身をもって体験したことです。出発に先立ち、その場で参加者全員に「時計を外すこと」が命じられました。その瞬間から始まった「時計を外して過ごす大自然の中での1週間」、僕にとって快適な一週間だった!
朝目が覚めたら、他の皆が起きるのを待つ。全員が起きたら、飯を作る。朝食を食べ終わったら、それを片付けて、カヌーで流れ始める。腹が減ったら、陸に上がり昼飯にする。昼飯食べたら眠くなるから昼寝する。そしてまたカヌーで流れる。喉が渇いてきたら、お茶にしようと岸に上がってお茶をする。じゃあ、そろそろまた流れよう! ということになって、また流れる。暗くなってきたので、キャンプの場所も探す。そろそろ腹も減ってきたしということで陸に上がり、テント張って、飯を作る。飯を食べて、酒を飲む。これが実によかった!

ところが、僕の連れで、このツアーに同行したある雑誌社の男が時計を隠し持っていた。22時30分ごろになってやっとじゃあそろそろ寝るとこを探すか、てな話になるわけで、森の中に分け入って、今晩は何処がいいかな? なんてやってるわけです。3日目あたりだったと思うんですが、彼の挙動を見ていて何となくおかしいから、『顔色も悪いし、一体どうしたんだ?』って尋ねたら『おちつかなくてどうしようもない、食欲もなくなった。だってもう22時なのに、これからまだカヌーを出すなんて信じられない』って言うんです。『何でお前は今が22時だって分るんだ?』って問い質したら、『実は時計を隠し持ってきた』って言うんです。『お前、ツアーを出発する前に、「時計を外せ」という指示を聞かなかったのか?』
結局、彼の場合は既に「時遅し」でした。主催者が提唱した「時計を外せ」は、都会の「ラットレース」(過酷な生存競争)から抜け出し、「星空の下での自然に抱かれる時間には時計は不要だ」というコンセプトに基づくものだったんです。

自然の中では、天候とか自分の空腹状態とかが「何かをする時間」を決めるものです。時間とは実にナチュラルな動きをするんです。富良野の森の餌場で、僕はリスを毎日観察していますが、天気とか風の具合とかで、朝飯の時間がかなり違います。例えば嵐の日、リスは飯を食おうとしません。だけど我々人間は嵐でも朝飯を食うでしょう? どっかで彼らと違うんだな、と思いますよ。ナチュラルな動きではなく、習慣で動いている。世間の慣習に縛られちゃってるんですよ。多分、これは25日には給料が出るってところから来ているのかもしれないけれど...。

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