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参加しなければ、楽しみは得られない


――長屋の魅力を教えていただけますか。

今、住んでいる一戸建ての家が建っている場所は長屋からすぐ近くですから、近所づきあいもそのままですし、行くお店も変わりません。でも、先ほど言いましたように、暮らしがなんだか寂しくなったように思うんです。朝起きてから私は一日中、ボタンを押してばかりだという気がします。長屋では、ボタンを押すのはコンピュータぐらいで、電気は紐を引っ張るし、お手洗いもそうだった。でも今は、コーヒーを作るのも、エアコンも、洗濯機も、全部ボタン一つで動きます。
日本に来る前は、私もアメリカでそういう生活をしていましたし、それが当然だと思っていました。そういう「便利な生活」のお陰で失ったものがあるということに気がつかなかったんです。でも一度「便利な生活」によって失ったものに気がつき、それを取り戻すとほっとしますよ。
例えば、Eメールはとても便利です。私も仕事上、使用していました。でも、毎日何通ものジャンクメールに悩まされて、とうとう止めてしまったんです。ジャンクメールでなくても、返事を書くために何時間も費やさなければなりませんでしたから、それを止めた今は、もう天国です(笑)。その時間に本を読んだり、好きなことができます。仕事では不便なような気もしますが、電話とファックスがあれば、なんとかなるものです。
それから、先ほどお話した火鉢。長屋では5つ持っていましたが、冬の暖房の主役でした。そのうち3つは銭湯を始めとする、下町のご近所づきあいで譲っていただいたものなんですけどね。
火鉢では食事も作れるんですよ。備長炭をいただいたときは、贅沢にも備長炭でお料理(笑)。火鉢はまるで遊び道具みたいなものです。テレビを観るよりずっと面白い。炭が燃えていく様子、新しい炭をくべる作業……そんな一つ一つが楽しみなんです。
引っ越すことになって、3つは人にあげました。あと2つは残してあるんですが、使えそうもないですね。密閉性の高い建物では、窓を開けて換気しなくてはいけないので暖が取れない。長屋はすき間風が入るような部屋でしたから、全然平気だったんですね。今の家で使うのはちょっと危険です。
長屋の暮らしは今よりずっと人間関係が緊密だったと思います。家の構造はとても大事ですね。家の前にはたくさん植木があって、車も通りませんでした。だから、いつも家を出るとすれ違う人と長話をするんです。近くのお店の人とも知り合いでした。夏になれば、家の前に縁台を置いて、夕涼みがてら話し込んだりしていましたよ。

――桐谷さんは町の人との触れ合いを大事にしていらっしゃるんですね。

私が育ったアメリカ、東海岸のボストンでは、子どもは小さい頃から人と話すことを訓練させられます。学校では授業中に質問しなければいけません。質問しなければ失礼にあたるんです。欧米は言葉中心の社会なので、昔から知らない人と接した
とき、きちんと自分の言葉で話すように教えられます。日本との一番大きな違いは、例えばエレベーターに数名が乗り合わせたとき、アメリカの人は必ず話します。冗談を言うとか挨拶をするとか。でも、日本人は絶対話さない。欧米では社会のしくみとして、人々が言葉を交し合う空気を作り出していたんですね。
けれども、かつての日本にはその補完機能となるしくみがありました。それが、町内会であり、町内会で行われる祭りなんです。町ぐるみでそういった活動を行うことで触れ合いの場を生み出していく。それは、素晴らしいしくみではないかと思います。私の勝手な理論ですが、最近の日本は都会的な生活になって、孤独感が深まっているようです。人との触れ合いが減りました。昔は銭湯を始め、いろいろな場所で人と出会い、つき合いの訓練ができていたんですね。祭りや町内会に参加することで、自然にコミュニケーションをする機会を持っていたんではないでしょうか。
いま、日本の各地で失われそうな祭りを復活しようという動きがあります。できれば、そういう活動に積極的に参加してみるといいのではないでしょうか。参加しないでいることは簡単なんです。私自身がそうですから。ちょっと雨が降れば面倒くさいな、やめようかなと思ってしまいます。でも、行ってみれば楽しい。参加してみたら、人々との共同作業がとても有意義なんです。若い人たちは、祭りというだけで「あれは面白くない、ディスコのほうがいい」と言うのかもしれません。でも、実際に参加すると違うんです。思い出もできますしね。町内会でたとえ無理やりでもやることがある、というのはいいことではないでしょうか。銭湯に行くのと同じです。自分の家にお風呂があれば、今日はもう遅いからシャワーで済まそうとなりがちです。でも、腰を上げて出向けば、いろいろな人たちと楽しい語らいの時間を持つことができるんです。
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