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■100パーセント、植物を原料にする生活
―――「植物国家」の日常生活について、詳しく伺えますか?
一年生植物の代表格がお米。そして、幕末期に取引された商品の36〜38%を占めていたのが米です。中期以降では1年間に3000万石取れました。だんだん取れ高は増えていくんですけれどね。人口は停滞しているのに、米の生産が増えるので、時代が下るに従って生活は豊かになっていったんですね。江戸の食糧事情というと「飢饉」が取りざたされますが、日本の飢饉は小規模なものです。暖かい国ですから。
むしろ、明治以降の方が庶民の生活は大変だったでしょう。近代工業ができると、貧富の差が生まれますから。ところが「植物国家」の時代は、金持ちといっても財閥のようなものがない。三井とか鴻池なんていう大商人はいますが、彼らとて工業を持っていませんから。
江戸時代の貧乏人っていうのは、産業革命以後に言われた「階級」というものではありません。例えば、同じ長屋に医者も住んでいれば、大工も山伏も住んでいる。あらゆる階層の人間がおもちゃ箱をひっくり返したように住んでいるわけです。だから、裏長屋というのは、貧乏人が住んでいたのは間違いないけれど、工場労働者という一つの階級がいた場所ではないんですよ。
貧乏なのは、むしろ武士です。下級武士の生活の方が苦しかったでしょうね。
ところで、日本というのは東西南北に長い国ですが、現代では石油エネルギーのために日本中同じような生活をしています。日本中が均一になっている。化石燃料のおかげでどこにでも早く行けて、すぐに帰って来られる。従って人間の移動が激しい。
江戸時代の人も、僕らが思っているよりずっと激しく移動してはいるんですが、それでも歩いていくわけですからね。北海道からネギを持ってくるなんてことはあり得ない。そこで、食べ物は地元のものだけになる。だから、各地、多様性に富んでいるわけですね。大豆なんていうのは、緯度が一度違うだけで何種類もある、というくらい。米なんて日本中で1000品種くらい作っていたでしょう。だからこそ「植物国家」が成り立つんです。それぞれが地元の植物で生活するわけですから。
僕は庭で畑をやっているのでわかるんですが、種を蒔くと同じ植物の中でも必ず、より丈夫なものが出てくるんです。見ているとわかります。それを食べないで、翌年種を採って蒔く。するとその中でも強いものが残っていく。うちの京菜なんて、そういうふうに繰り返した結果、今では自生していますからね。昔の篤農家はそうやって、自分の土地に向いた品種を残していったわけです。そして、昔の職業は世襲でしたから、代々その品種が受け継がれていくわけですね。さらに、種は採れすぎるほど採れるものですから、種の交換をやった。こうして日本中にいろんな品種が生まれました。