編集部|
先生がおっしゃる東洋的、日本的自然観が色濃く見える“場所”は今も私たちの周りに存在しているのでしょうか?
山極|
里山がまさに良い例です。日本人の自然観には「ハレ」という神様が住んでいる山や森があって、一方に人々の住む「ケ」の日常の世界がある。日常の世界「ケ」と聖なる世界「ハレ」、その間に「里山」という“どちらでもあり、どちらでもない”と定義できるような場所が実際に存在し、僕らもその自然観の中で生きている。
里山は野生動物と人間が出会う場所、人間は日常生活に必要な薪やキノコを採集し、野生動物もそこで餌を拾い、お互いが占有することなく双方で利用しつつ、間の世界として機能してきました。
これは何も森と里の間だけの話しではなく、日本では海も神様が住む「ハレ」の世界です。海と里の間に位置する海岸で浦島太郎が亀と出会い、亀の世界である“竜宮城”に案内されるという御伽話が生まれた場所。海岸も里山と同じような機能を果たす共有の“場”でした。
日本人の暮らしにはそういう“場”がたくさんあり、日本の昔話には野生動物と人間が対等に登場する物語がたくさんあります。ヘビと人間が結婚して子供を産むことさえ自然に語られる、つまり日本では、野生動物にも人間のような存在を認め、共生してきたのです。
例えば12世紀に描かれたとされる『鳥獣戯画』、鳥羽僧正覚猷の作とされていますが、実際には鳥羽僧正ひとりでなく、多くの絵師たちが参加して完成した絵巻だと考えられます。『鳥獣戯画』は日本の漫画の原点と言われていますが、ウサギやカエルやサルが人間のような姿や行為で、ドラマを演じる。つまり、僕らはその姿に”サルであってサルでない”、“サルであって人間のようなもの”を認めているわけです。これこそが「中間」、「間」なんです。そういうものを僕ら日本人は心の中に持っているんです。
こうした例はたくさんあります。日本独自の園芸「盆栽」も然り。盆栽というミニチュアの木を眺めながら、そこに大樹の年輪を感じている。全く異なる二つの存在を僕らは見い出すことができる。また「こけし」は木の人形だけど、そこに人間の魂のようなものを感じている。さらに「文楽」、江戸前期に流行ったこの演芸は三人の黒子が木の人形を操る人形劇ですが、僕たちはその人形の動きに“人間のドラマ”を見ている。そういう「心」を僕たち日本人は持っているんです。