編集部|
2022年、数年前には想像すらできなかった規模の天災が世界各地で頻発し、社会構造を激変させるような政治状況も続いています。2020年に端を発したコロナ・パンデミックが今だに、終息の兆しが見えない状況下に起きたこの春のロシアによるウクライナ侵攻、これが引き金になって全世界を巻き込んでのエネルギーと食糧危機、さらに追い討ちをかけるような記録的な猛暑と大雨、まさに人類がこの地球の上で生き延びる上でのさまざまな大問題が同時にふりかかってきているような状況です。
若い世代を中心に「ユートピア」の対極、「ディストピア」という時代意識が広がる中、永年にわたり、霊長類研究を通して、地球を考察されてきた先生は現在の状況をどのように捉えていらっしゃるのか? そして先生が所長として研究が推進する総合地球環境学研究所はどのような研究プロジェクトが進んでいるのかをお聞かせください。
山極|
まずは地球研についてお話ししましょう。総合地球環境学研究所は2001年に設立された組織です。初代所長は動物行動学の第一人者、日髙敏隆先生。日高先生が常日頃おしゃっていらしたのは、「地球環境問題の根幹にあるのは、広義で言えば、文化の問題である。」と。
地球環境問題というとみなさんは普通、自然科学を思い浮かべますよね。しかしそうではなくて、日高先生は文化の問題だと言い切っていらっしゃいました。
地球研が所属する人間文化研究機構には、6つの研究所が所属していますが、地球研以外は全て人文学の研究所、国立国語研究所、国文学研究資料館、国立歴史民俗博物館、国立民族学博物館、国際日本文化研究センター、そして僕が所長を務めるこの地球研。ですから、地球研そのものがそもそも非常に異色な存在なんです。外からみると、環境問題はテクノロジーが問題を解決するだろうと思われがちですが、この組織体系からもご理解いただけるように、僕たち地球研は、文化の側面から地球の環境課題を解決しようとしています。
これは僕の印象ですけど、日高敏隆先生は、同じく動物行動学者であるフォン・ユクスキュル(*1)の考えを信奉されていらっしゃいました。このドイツの研究者は「環世界」といういう概念を1934年に提唱した学者です。「環世界」の概念を手短に説明すると、“それぞれの生物種が持っている環境は違う”ということです。ハエにはハエの環境、イヌにはイヌの、トリにはトリの、そして人間には人間の環境があるという考え方です。
僕たちは今、こうして室内にある机や椅子を区別して見ているけれども、ハエにとれば、食物にしか関心がないはずだから、これは全部一緒に見えているはずです。それはイヌにとっても同じで、人が座っている場所には興味があるだろうから、その場所は特別に見えるかもしれないけど、他の場所は人間とは違う認識でいるはずだという考え方です。
編集部|
主体が異なると、その環境は違う、つまり“環境”とはひとつではないということですか?
山極|
その通りです。人類は「認識」を文化という形で発展させてきました。だからよく言われることですが、「イギリス人が考える環境と日本人が考える環境は違う」と。それは文化の問題でもあるし、地域の問題でもあると言えます。
フォン・ユクスキュルと同じ頃にもう一人、日本では『風土』という本を書いた和辻哲郎(*2)という哲学者がいました。彼は人間の精神というのは、自然環境と切っても切り離せないものであると。「風土とは単なる自然環境ではなくして人間の精神構造の中に刻みこまれた自己了解の仕方に他ならない」と、言っています。
さらに、同時代を生きた京都大学の哲学者、西田幾多郎(*3)もこれに近いことを言っています。「生命の論理とは、環境の主体化であり、主体の環境化である」と。
「環世界」という考察が、20世紀前半、西洋と東洋で同時に起こるということに私は注目しています。このことが何故重要かというと、それまでの西洋近代科学では、アリストテレス以来、「環境は物理的な環境であっても、有機的な環境であっても、人間は客観的に、離れて見ることができる」とされてきたからです。
編集部|
つまり、西洋近代科学は環境を客観的に見つめ、人間がコントロールできるものと見なしていたのですね?
山極|
そうです。西洋近代科学では、人間は環境を操作できると言い続けてきた。「科学技術を進歩させることで、地球環境をいかようにも変えられる」と。そしてそれがいつしか信仰みたいな信念のようになってしまったのです。
*1
ヤーコプ・フォン・ユクスキュル|Jakob Johann Baron von Uexkull
生物学者 / 哲学者(1864-1944)
1864年9月7日、当時ロシア領だったエストニアのレヴァール(今日のタリン)近郊、レヴァール市長であったアレクサンダーの三男として生まれる。ユクスキュル家はドイツ騎士修道会に参加して封土を得た男爵家で、十三世紀まで遡るバルト・ドイツきっての名家。高校時代に一生を通じての彼の指針となるカント哲学に出会う。地元のドルパート大学で動物学を専攻後、当時支配的であったダーウィニズムに飽きたらず生理学に転向し、1888年以降ハイデルベルク大学に遊学して研究を続ける。研究の資金は潤沢な相続財産ですべてまかなっていたが、日露戦争で手持ちのロシア国債が紙切れ同然となり破産。以降は理論的思索を中心とした探求を私学者として続けた。その後、1924年にようやくハンブルク大学付属の〈環境研究所〉所長に招聘され、多くの弟子を育成。大学退官後、1944年7月25日、カプリ島で療養中に亡くなる。
主著は『海棲動物の実験生物学入門』(1905年)、『動物の環境と内的世界』(1909年初版、1921年改訂再版〔=前野佳彦訳、みすず書房、2012〕)、『国家生物学』(1920年)、『理論生物学』(1920年初版)、『生物から見た世界』(1934年)、『見たことのない世界』(1936年)、『意味論』(1940年)等。
*2
和辻哲郎|WATSUJI Tetsuro
哲学者(1889-1960)
1889(明治22)年3月1日に兵庫県仁豊野(現在は姫路市)に代々から村医を営む家の次男として生まれる。姫路中学校を経て、第一高等学校へ入学。その後、東京帝国大学文科大学哲学科へ入学。『ニイチェ研究』(1914、大正3)『ゼエレン・キエルケゴオル』(1915、大正4)を上梓するなど、はじめは西洋哲学を研究していたが、しだいに日本の古美術や古代文化への関心が高まり、旅行の印象記であるヒット作『古寺巡礼』(1919、大正8)を執筆。単発の論文集『日本精神史研究』を正続二巻出すなど、日本研究が続けていたが、1925(大正14)年京都帝国大学文学部の倫理学講座への招聘を機に、仏教倫理思想史、西洋の倫理学等の研究に着手。1934(昭和9)年に東京帝国大学文学部教授に就任、同年『風土 人間学的考察』を著し、その後学問的主著『倫理学』三巻と『日本倫理思想史』をまとめる。退官後は政治や現代社会の動向に対する関心は持続するが、仏教哲学研究や『桂離宮』『歌舞伎と浄瑠璃』等の文化史研究に取り組む。
*3
西田幾太郎|NISHIDA Ikutaro
哲学者(1870-1945)
明治3年5月19日石川県河北郡宇ノ気に生れる。金沢第四高等学校中退、東京帝国大学選科卒業。四高教授等を経て京都帝国 大学教授。明治44年刊の『善の研究』以下、多数の著作を発表。周囲に有能な同僚、門下生を集め、所謂「京都学派」の基礎を築いた。西田は東洋的思想の地盤の上で西洋哲学を摂取し、「西田哲学」と呼ばれる独自の哲学を築き上げた。その哲学は、近代日本における最初の独創的な哲学と評される。西田が企図したのは、西洋の諸哲学と同じ次元で語られる一つの「哲学」であった。西田が目指すのは、現実の世界の構造を何処までも「論理的」に解明することである。「純粋経験」「無の場所」「行為的 直観」「絶対矛盾的自己同一」といった独特の概念も、従来の論理によっては捉えることのできない「根本的」な事実を、真に具体的に捉えることのできる「論理」として構想されたものに外ならない。生命を扱った「論理と生命」は1937年に発表され哲学論集第2巻に収められている。西田の哲学は、宗教・自己・身体・生命・歴史・芸術・科学等、様々な観点から注目を集めている。