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イエローストーン公園の中を通る道路に点々と残された狼の足跡
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イエローストーン国立公園は米国のワイオミング州の北西部にある、およそ90万ヘクタールもの広大な自然公園だ。1872年に世界初の国立公園として誕生して以来、米国国民ばかりでなく、世界中から観光客がやって来る。この公園のあちらこちらで、温泉が湧きだしており、天空に向かって大地を揺るがせるようにして吹き上げる間欠泉で有名だ。
イエローストーンのもう一つの魅力は野性動物。3万頭ものエルクから巨大なグリズリー(灰色グマ)まで、様々な動物や鳥たちがこの公園の自然に守られて暮らしている。雪が降り積もる真冬の朝、温かな温泉が流れ込む湿地帯に肩を寄せあうようにして集まっているバイソン(アメリカ野牛)の姿など、幻想的な大自然の風景に比較的簡単に出会えるのも、この公園ならではだ。
野性動物の連鎖を再生させるのは
人間の責任か?
『赤ずきんちゃん』の物語を思い出すだけでも、ヨーロッパの人々が抱く狼のイメージは「悪」と強く結びついているのがわかるだろう。狼は時には悪魔の使いであり、赤ん坊を盗み、家畜を襲う恐ろしい生き物だ。そんな(狼にとっては極めて不当な)イメージを抱いて新大陸にやって来た人々は、自分達の家畜を守り、弱い野性動物を保護するという「正しい目的」で狼を熱心に退治していった。
現在イエローストーン公園になっているエリアには、グレイウルフの亜種であるノーザン・ロッキー・マウンテン・ウルフが棲息していた。19世紀末から公園内での「調整」という名目の狼狩りが始まり、1914年から26年の間だけでも、136頭の狼が「退治」された。1940年代には、すでに公園内で狼の群れが目撃されることはほとんど無くなり、70年代には絶滅が宣言された。
しかし、強い動物を「退治」することは、決して弱い動物を助けることにはならない。天敵を失った動物は繁殖しすぎてしまい、結局食物不足に陥ったり、病気などで弱った個体を群れの内部に
抱え込むことになるなど、生態系を人間の手で壊してしまえば破綻は別な形で現れるのだ。
特に生態系の頂点に立つ「強い動物」の数は自然界のバランスにとって極めて重要だ。
米国の国立公園法は、「人間の意図が原因で絶滅してしまったものは、再生させる」という規定がある。この規定に従って、狼を公園に呼び戻すプロジェクトは長い基礎調査を経て、1987年に本格的な活動を開始した。
炎に包まれたイエローストーン
1988年、アメリカ中西部は春先からほとんど雨が降らず、記録的な日照りが続いていた。夏になって落雷が起きるたびに森はあっという間に燃え上がった。
落雷などが原因の山火事は「自然現象」。森林の再生に山火事は時には必要ですらある。イエローストンでは観光客や施設、公園周辺の居住地域などに影響が出ないかぎり、徹底的な鎮火より、むしろ人間の手を出来るだけ加えない自然鎮火を見守る。しかし、この年の山火事は生易しいものではなかった。軍隊まで動員された消火活動が続き、雪の季節がやってきて、ようやく森に静けさが戻ったとき、公園の36%が灰になっていた。消失したのは木々だけではない。野性動物たちの食物も冬眠のためのねぐらも消えていた。
しかし、公園の関係者は慌てなかった。これも自然のサイクルの一つ。木々の灰の下から来年は必ず木や草の芽が生えてくる。餌があれば逃げた動物も戻ってくると確信していたからだ。とはいえ狼は戻って来なかった。
雪の中に踏みだした「移民」の狼
1995年3月、イエローストーンの大地はまだ深い雪に覆われ、春の足音は幻聴でしかなかった。その凍った大地の中に狼が放たれた。数ヵ月を過ごした囲いの扉が開かれても狼は走って外に出たわけではない。ゆっくりと用心深く歩き始めたのだ。
狼プロジェクトが本格化し始めてからの道のりも決して平坦なものではなかった。「悪魔の使いを呼び戻すなどとんでもない!」という感情論から、人間の手で違った環境から狼を連れて来ても生き残れるはずがないという学術的批判まで、野性動物や環境問題に関する議論がこれほど大きな関心を集めたのは米国史上かつて無いだろうと言われている。
1994年の12月にカナダのアルバータ州で捕獲された狼、14頭が3つの群れに別れて「開拓者」となった。その結果は、多くの研究者の予想をはるかに上回るものだった。翌年には9匹の子供が生まれ、さらに新しく「移民」した16頭に加え、狼の数は順調に伸びた。 2001年現在でおよそ100頭が公園内に棲息している。
自然を自然のままにできるのか?
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火事でいったん燃えつきた森林も復活のきざしがみえる
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1988年の火災で燃えた森林には一切植林は行われず、自然に森が再生するのを見守るだけだ。そして森林は確実に蘇っている。
狼の「移民」は3年で終了し、後は自然の繁殖に任されている。狼プロジェクトは一応成功したと言えるだろう。しかし、この予想以上のスピードでの成功は「増えすぎたらどうするのか?」という問題を内包している。やがて人間はまた自然を「調整」しようとするのだろうか?
1995年以降、公園の中で狼を目撃した「幸運な」観光客は2万人を超えている。