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Hideki TATSUMOTO 
1942年広島県生まれ。1966年、千葉工業大学卒業。米国レンセラー工科大学博士研究員を経て、1982年、千葉大学工学部応用化学科。工学博士(京都大学)1991年、千葉大学教授。環境審議会、廃棄物減量等推進審議会、環境影響評価技術審議会など、各種委員会委員を兼務。
主な著作: 『環境をはかる―地球の未来への思い―』、『おもしろい炭のはなし』、『トコトンやさしい炭の本』、『おもしろい活性炭のはなし』(いずれも日刊工業新聞社)など多数。


長い夏休みも終わりに近づき、新学期を迎えようとしている千葉大学・西千葉キャンパス、既に学生さんの姿もちらほら戻って来ています。国立大学の中でも飛び級の容認などユニークな制度の導入に積極的な国立千葉大学、駅前のロ―タリーの一角にある門構えは周囲の風景に調和して、こじんまりとしています。まるで公園の入口にような親しみ易さに誘われて構内に足を踏み入れます。先生のいらっしゃる有害廃棄物処理施設までは600メートルあまり、ちょうど心地よい散歩道です。しばらく行くと、先生の電話でのご説明とおり、右手に2階建ての実験所のような建物が見えてきました。2階の一番奥の研究室は、蔵書と研究データ等の書類で埋め尽くされていました。編集部の来訪を聞いてデスクから立ち上がって迎えてくださった先生の後ろには、この部屋唯一のインテリアである帆船の大きなリトグラフが。どこか懐かしい立本先生の笑顔は初対面の緊張感を一挙に解きほぐす温かさでした。

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カーボンブラックから炭へ”


Q:炭の新しい用途についてさまざまな研究をされていらっしゃいますが、先生と炭との出会いについて、まずお話を伺えますか?

A: 僕が今まで一貫して研究テーマに掲げているのは、水質の浄化なんです。そして、この研究テーマに沿って最初に取り上げた素材は、炭ではなく、カーボンブラックでした。カーボンブラックとは、石油を燃やすと最後に出てくるススのようなもので、吸着性があり、現在でも自動車タイヤの原料などに使われている素材です。このカーボンブラックには脱色効果もあり、おりしも東京オリンピックが開催された昭和30年代、東京をきれいにしようということが国家的なプロジェクトとなり、当時汚染が深刻化していた隅田川の色抜きに使うことになったのです。そのころの隅田川の上流には、染料会社や染色会社などたくさんの工場があり、そこからの排水で川の汚染は本当にひどい状態でした。早速カーボンブラックによる脱色処理を試みたのですが、粒子が細かく軽いため、すぐに水に流れてしまうこと、また水辺の水草などを真っ黒に染めてしまう二次公害が引き起こされることが判明し、カーボンブラックではない方法での解決法を余儀なくされたのです。

そこで、僕たちは活性炭の優れた吸着性に目をつけて、本格的に研究に着手することになったのです。これが炭との最初の出会いです。

活性炭の吸着性を利用した製品は、当時もすでにたくさんありました。砂糖や医薬品の精製、それに毒ガス用マスクへの装着など、その効果も広く認知された製品素材でした。ただ、当時の日本社会にとって、“公害”と呼ばれる廃棄物から引き起こされる影響への対策として、言い替えれば“捨てるもの”に高価な活性炭を使うという案は、なかなか受け入れられない雰囲気がありました。

製品を製造する上での原材料としてならともかく、捨てるものを処理するためにも経費を使うというセンスは、当時の経営者には希薄だったように思います。また、有効な水処理を実施するために、活性炭をどのように使えばよいか?という研究データがなかったことも事実です。

Q: 先生にとって、この“公害”という問題を初めて耳にされた時、どのようにお感じになられましたか?

A: 実は、僕にとっては“公害”という問題、いまだにどのように捉えるべきか考えつづけている状態です。より豊かで楽しい生活を社会に構築するために、新しい技術が生まれ、産業は発展してきました。あの水俣病にしても、窒素肥料が出来たことで農産物が飛躍的に増産され、人々は豊かになったのです。ただ、社会全体としての豊かさを引き替えに、地域の人々の健康を著しく蝕む弊害、つまり“公害”が引き起こされたのです。当初僕は、この衝撃的な事件を理解すべく、さまざまな記事を読み漁りましたが、でもなかなか理解できなかった。ただ次第に、こうした人間に及んだ害を社会問題として真摯に受けとめ、社会全体がこれに立ち向かう姿勢が芽生えてきたのです。大企業は排水・廃材などの処理に対して、国が設定した安全基準をクリアする社会的責任を自覚し始めました。今では厳格な管理体制の下、処理されるようになってきたことはご承知の通りです。ところが近年、それでも僕たちの社会や環境は汚染され続けている事実に、一般市民も気付き始めたのです。実は、自分たちの生活環境を汚している原因のひとつに、自分たちが日々出している一般家庭ゴミも含まれているということに。

Q: このあたりから社会の認識が“公害”から“環境問題”へと移ってきたのですね。

A: その通りです。“公害”という枠組みからより広い問題提起をした“環境問題”、ここでは、自分たちは被害者であると同時に加害者であるという図式が成り立つのです。環境問題という言葉が一般に広まったのは、1972年にストックホルム国連人間環境会議で採択された「人間環境宣言」の中で使われた“環境”という言葉が最初だったと思うのですが、環境問題において、共犯者となってしまった僕たちが、“次の世代に負の遺産を残さないために、何をすべきか”を人類共通のテーマとして真剣に考えるようになったのではないかと思います。>>PAGE-2