~地球の声に耳を傾ける~
エコピープル

2025年夏号 Ecopeople 104カール・ベンクスさん
インタビュー

2 日本での暮らし

編集部
目的地である東京での暮らしは、どのようにスタートしたのですか?

ベンクス
東京・神田の日大空手部に入り、ドイツ語教師や映画のエキストラなどのアルバイトをしながら日々、空手の習得に集中しました。
編集部
当時の東京の印象はいかがでした?

ベンクス
第二次世界大戦で完全な焼け野原となった東京は、暮らしの再建に取り組む人々の熱気で溢れていました。当時、東京中が新しい建物ばかりで、日本初の超高層ビルとして建築中だった霞ヶ関ビルディングを除けば、平らな都会でした。

霞ヶ関ビルディング
鉄骨造・鉄骨鉄筋コンクリート造|柔構造・免震耐震構造採用
施工期間 1965年3月〜1968年4月
地上36階・地下3階(高さ147メートル)

ベンクスさんが手がけた松代市内の販売中の
古民家ハウス|
同建物の2階のマスターズ・ベッドルーム。
居住性をイメージしやすいよう家具が設置されている。







ベンクス
当時の東京は1964年にオリンピックを成功させ、経済が急成長を遂げていて、街には勢いがありました。私は在日ドイツ商工会議所の紹介で、晴海の国際展示場でのドイツフェアや1970年の大阪万国博覧会のドイツ館の内装工事のサポートなどを請け負い、次第に建築関係の仕事に関わることが増えていました。
さまざまな場所で、日本の大工さんや小さな工務店のみなさんと一緒に働いたのですが、いつも彼らの技術の高さに驚かされました。手入れが行き届いたシンプルな道具を巧みに使いこなし、木材を扱う手際の良さに、タウトが日本の大工たちは職人ではなく芸術家だと評した言葉を思い出したものです。
ただ、急激な経済発展を遂げる日本で、歴史ある建物があっという間に取り壊され、安直な工法の建物にすり替わっていく状況には心が痛みました。
ドイツも日本同様、第二次大戦で壊滅的な被害を受けましたが、戦後復興の過程で、アーバンデザインとして都市全体を「調和のある景観」として捉える建築思考があり、建築に関する法整備は早い段階から進んでいました。
歴史ある古い建物の外観を生かし、内部は現代の暮らしにふさわしい利便性を与え、環境負荷に配慮した施工、そして快適なインテリアへの再生などが推奨され、行政はこれらを指導・管轄していました。
編集部
それぞれの街、地域が、歴史や住民たちのアイデンティティーを物語る通りや広場を確実に保全しているドイツに比べると、日本は京都などの一部の例外を除けば、施主が周囲の景観の調和を考慮するまでには至っていないのが現実です。残念ではありますが…

カールベンクス古民家カフェ『澁い』- SHIBUI内装|
ゆったりと配置された店内テーブルとソファ。
穏やかな時間が流れる。