カールベンクス古民家カフェ『澁い』- SHIBUI外観
編集部|
ベンクスさんと日本との出会い、その原点をお聞かせください。
ベンクス|
原点となったのは、父の存在です。といっても私が生まれる2ヶ月前に旧ロシア(ソ連)で戦死したので、父の記憶は全くありません。絵画や家具の修復家だった父は、日本の浮世絵や瀬戸物、根付や印籠などをコレクションしており、自宅にはそうした日本に関する物や本がありました。日本の伝統建築や民族的美意識を高く評価したブルーノ・タウト(*)の著作、『ニッポン』や『桂離宮』もありました。
私にとって日本は父の面影、父が愛した国として身近で、その文化に親しみを感じられる特別な国でした。
ブルーノ・タウト Bruno Julius Florian Taut(1880-1938)
建築家 / 都市計画家
表現主義の建築家として活躍するが、1933年ナチスの迫害から逃れるために来日。3年半、日本に滞在する中で、各地にその足跡を残す。その後、トルコ政府の招聘でイスタンブールに居を移す。1938年同地で没する。
タウトが提唱した4つの概念
完全な釣合い|調和と均衡を指す彼の建築思想の中心的な概念。
色彩の重要性|建築に色彩を積極的に取り入れることを提唱。
日本の伝統建築への関心|桂離宮を高く評価し、日本の伝統建築への深い理解を表明。
自然と宇宙|自然や宇宙との調和を重視。その思想を建築に反映することを提唱。
編集部|
当時のベルリンでは特殊な環境で育たれたのですね。
ベンクス|
確かにそうかもしれません。ただ、私にとっては日本への関心は本当に自然な流れでした。12歳から空手を習い始めたのですが、その頃からいつかは日本に行こうと思っていました。その後、自由を求めて西ベルリンに移り、さらにフランスでインテリアのアルバイトをしていた時、南フランスのサントロペで日本の武道家が空手と柔道の合宿を開催していることを知り、同地に向かいました。既に柔道はヨーロッパでも定着し、流行の兆しがありましたが、空手はまだ認知されていない武道でした。
カールベンクス古民家カフェ『澁い』 - SHIBUIの内装
随所に日本家屋ならではの伝統の意匠が活かされている。
編集部|
初めての南フランスでの合宿はいかがでした?
ベンクス|
日本の学生やヨーロッパで活躍する著名な選手も数多く参加していて、活気がありました。合宿指導をしていた師範から「本気で強くなりたいなら日本に来い」と言われ、幼い頃からの夢だった“日本行き”をこの言葉で決心しました。
編集部|
ということは、日本にいらした当初の目的は空手家になられることだったのですね?
ベンクス|
そうです。一生懸命アルバイトをして旅費を貯め、1966年、マルセイユ港から日本に向かいました。地中海を抜け、スエズ運河を通過し、インド洋からマラッカ海峡を経て、太平洋を北上。各地の港で数日の補給をする郵便船での船旅で、行程は5週間でした。
初めて上陸した日本の港は神戸港。旅で知り合った日本人に誘われて初めて京都を訪れ、木造建築の美しさに息を呑みました。京都はアメリカ軍でさえ、その文化的価値を評価し、空襲をしなかったくらいです。その街並みの調和と均衡に感動しました。
ベンクスさんが手がけた松代市内の販売中の
古民家ハウス|
吹き抜け天井からはアイアンのシャンデリアが設置されている。