編集部|
現在では日本の豊かな自然と変化に富んだ四季折々の風景に魅せられる外国人も増え、私たち自身もそれが我が国の財産であるという認識をするようになりましたが、当たり前のように自然が身近にあるがゆえに、日本人は自然を保護するという思考を持たずに来たように感じます。
国立公園という概念についても、その歴史は浅いと聞きます。
亀山|
確かに日本国民の一般的な意識として、当時は自然保護という価値観はほとんどなかったと言ってもいいでしょう。それでも、日本の美しい自然を我が国の“大切な財産”として認識し、守ろうという動きは戦前から少なからずあり、手つかずの原生林や自然が残る山岳や、観光資源としてすでに広く認知されている景勝地を国立公園に指定しようとする動きを受け、昭和9年(1934)、公園行政を担当する内務省衛生局保健課(現在の厚生省の業務を司る部署)により瀬戸内海、雲仙、霧島、大雪山、阿寒、日光、中部山岳、阿蘇が日本初の国立公園に指定されました。
環境省 日本の国立公園
日本における国立公園行政の指導的な役割を果たしたのが田村剛です。彼は世界最初の国立公園として指定されたアメリカ合衆国のイエローストーン国立公園にも実際に足を運んだ造園学者で、優秀な官僚でした。
その彼が、美しい尾瀬湿原がダムの水底に沈没し、この地上から消え去るという非常事態への運動の中心人物として、東京を舞台に活発に動いたのです。田村は尾瀬保存期成同盟では結成当初から中心的に動き、ダム建設の中止に成功します。そして、昭和26年(1951)の尾瀬保存期成同盟から日本自然保護協会の改組を機に初代理事長に就任、日本に自然保護という思想と活動の意義を指し示した人物です。
編集部|
未来社会を見据えた世界の動向に通じた中央官僚が「自然保護」の活動を牽引したという事実を伺い、その後の協会の着実な展開は大いに納得できます。
個別の現場にいると、目の前の作業に追われ、環境行政の根幹を支える理論装備や組織整備、人材育成、関係機関や国際機関との連携や情報共有、そして政策提案までというフルセットなど考えつかないと想像します。行動範囲のスケールといい、長期の活動ビジョンなど、田村理事長の存在の大きさを感じます。
亀山|
初代理事長の田村の存在は、その後の当協会の発展、行動指針に非常に大きな知見と影響がたどれます。その後も各地で頻発する電源開発や硫黄等の鉱物資源採掘などの憂慮すべき事態への対処、さらに「大雪山縦貫道路」、「妙高高原有料道路」、「連峰スカイライン(秩父多摩)」などの道路問題やスーパー林道建設の森林の伐採問題では、客観的な学術調査に基づく意見書を作成しました。こうした実績を通じて、自然保護の重要性が社会全体の意識として時代に浸透していく上で大きな力になったと思います。
各地での保護活動と共に学術調査を進めること、環境保護行政での法整備の重要性を知る彼だからこそできた思考と行動です。日本自然保護協会には田村から受け継いだDNAが脈々と息づいています。
現在、世界目標として掲げられた、生物多様性の損失を止め、回復へと導くためのネイチャーポジティブの実現が求められるなか、当協会では「日本版ネイチャーポジティブアプローチ」を提唱し、さまざまな機関や団体、個人とのパートナーシップを結んで推進しようとしています。これは、当協会の発足当初から継承されてきた“開かれた組織文化”がベースにあるからこそ実現へと踏み出せた意欲的なプロジェクトです。
*「日本版ネイチャーポジティブアプローチ」プレスリリース
編集部|
「ネイチャーポジティブ」の実現のためには、生物多様性と社会制度の改革のためにジャンルを横断した多分野のパートナーを必要とするチャレンジだと思います。
亀山|
いつの時代も社会は複合的な課題を抱えているものです。協会のコアとなる活動メッセージ「人々が自然とともに生き、赤ちゃんから高齢者までが自然に囲まれ、笑顔で生活できる社会を目指す」ためにも、ネイチャーポジティブの実現を目指して活動したいと願っています。
田村剛|TAMURA Tsuyoshi
造園家・造園学者・林学者(1890~1979)
日本自然保護協会初代理事長、国際自然保護連合名誉会員、日本造園学会会長等の要職を多数歴任し、「国立公園の父」と言われる。
主な著作|『国土計画と健民地』、『世界の景観』、『作庭記』
造園作品|皇居外苑皇太子ご成婚記念大噴水、千鳥ヶ淵戦没者墓苑など