編集部|
“同じ気持ちと姿勢” と、おっしゃいましたが、桑木野さんにとっての「同じこと」とは何なんでしょう?
桑木野|
人間、健康、美しさ、この三つの探求です。そして、これらの根幹となる人間そのものにすごく興味を持っています。自分自身の存在意義、
「生きるって何だろう?」
「何のために人は生きるんだろう?」
「お金を稼ぐのは何のためなんだっけ?」
私の最大の興味はまさに「どう生きるのか?」、その追求だと思います。
旅する時代に『アーユルヴェーダ』(*)に出会い、チベットの先生の教えや啓示が私の中でどんどん深まり、新潟の里山にたどり着いたのです。
「生きるとはどういうことか?」に向き合いながらこの地で日々を過ごしています。
* インド大陸の伝統医学で、ユナニ医学(ギリシア・アラビア医学)、中国医学と共に世界三大伝統医学。心、体、行動や環境も含めた全体としての調和が健康にとって重要であると考え、特に食事が重要視されている。
編集部|
桑木野さんをそこまで突き動かすのは、人間への興味なのでしょうか?
桑木野|
人間に興味を持っていることは事実です。同時に、「日々を生きるための健康とは何だろう?」とも考えます。『アーユルヴェーダ』における健康とは、一般的な日本人が考える健康とちょっと異なり、Five Sense(五感)などの感覚的なものだったり、身体的な健康のみならず、心の健康を非常に重要視します。それもあって、一時期ヨガに心酔し、それが高じて、最終的にインドまで行ってしまいました。
ヨガは奥が深く、その習得や修行方法にはいろいろなパターンがあるんです。多くは身体を動かすプラクティスですが、私は最終的には哲学的問答にたどり着きました。
現在、経典をサンスクリット語で教えることができる師がほとんどいなくなり、唯一インドにいらっしゃる先生を訪ね、その地に2ヶ月滞在し、修行しました。
上級クラスの受講生を世界各地から集めるこのクラスは「哲学」。2か月に及ぶプログラムは、ひたすら「ヨガとは何か?」という “問いかけ” にとことん向き合うシンプルな内容でした。
ここで私が学んだのは「“私” という存在をどう表現するか?」でした。
哲学的であり、非常に難しいんですが、「私はこう思います。」「私は幸せです。」と語り、その幸福感の定義づけを言語化していくんです。講義は全て英語での進行で、それぞれが何をもって「幸せであるか」をひとつひとつ言葉び置き換えて行くので、すっごく時間がかかるんです。
「あなたの思う “幸せ” の定義とは何か?」
「あなたはそれを “幸せ” と言うけれど、他の人にとっては全く違うのではないか?」
ひとつの言葉を延々と噛み砕いていく進行に、正直なところ最初は何をやってるんだろうと思いましたが、修了時にその2ヶ月がまさに自分自身に向き合う時間だったことを実感しました。ただ、本当にきつかった…。 自分の内側に存在するさまざまな自分を自覚させられ、その結果、開けたくなかった蓋をやっと自分で開けることができたのです。
この経験を通し、「自分が生きる」ためには、相手となる「他者」がいないと生きられないし、その「他者」もひとりでは生きていけない存在であることを体得できたのです。
何よりも、この体験によって自分が「他者」に言葉を伝える際、そこには幾重ものフィルターがかかってるという実態を経験として “わかった” のです。
このクラスは文字通り多国籍で、英語圏ではないエリアからの参加者も結構多かったんですが、言語というフィルターを乗り越える表現力は、英語力とは別の次元の問題だと感じました。実際、日本語がわかる相手と日本語で話し、“私はこう思い、こう言ったんだから、ちゃんと伝わるだろう” と思った言葉がこんなにも相手に伝わらない。「他者」というフィルターを通すと、言葉とはこんなにも違う意味合いをもつ現実を痛いほど学びました。
編集部|
膨大な量の「他者」に実際に対峙することで、自分がそれらの「他者」とどう違い、どこを共有でき、何をもって繋がる可能性があるのかを体得する経験だったのですね。
桑木野|
そう思います。
編集部|
或る意味、“言葉に対する不信感” はもちませんでした?
桑木野|
すごくもちましたね。ある時、先生が「昔、人は迷いながらも言葉を使わずにコミュニケーションしていた」と話されて、言葉に頼ることの限界と怖さも感じました。
編集部|
拈華微笑(ねんげみしょう)、言葉を介さずに成立する意思疎通の境地を目指す教えを話されたのですね。