編集部|
COVID19の地球規模の感染による行動制限、さらに今年2月に始まったロシアのウクライナ侵攻による世界規模のエネルギーや食料の供給不足、その中でますます深刻化する気候変動と未曾有の天災、私たちは今、当たり前だった日々の基盤が次々と崩れていくような現実に直面しています。生きていくための基本条件が崩壊する世界で、未来への不安から自分の人生へのビジョンが描けずにいる人が多いことを感じます。
まさに人生観や価値観の再構築が求められる時代において、桑木野さんは実に伸びやかにご自身を解き放ち、“旅” という実体験を通して体得された “大切なこと” を「里山十帖」の「食」というシーンで表現されているように拝察します。
現在、南魚沼の里山で旅人を迎え、もてなす宿のフード・ディレクターを務める桑木野さんにとって、まず “旅” とは、どのようなものだったのかをお聞かせください。
桑木野|
思いがけない質問ですが、自分でも今、この状況に在ることを不思議な感覚で受け止めています。まさに今、“ここ” にたどり着いているわけですけれど、20代の頃はまるで根無草のように一か所に止まることなく、何かをずっと求めて旅していました。
多分これは、私に限ったことではなく、多くの方が通り過ぎる人生の通過点だと思いますが、ある日、「自分は何者なんだろう?」、「何のために生まれたんだろう?」と考え始め、“旅への衝動” というほど大袈裟ではないにしても、「新しい何かを発見できるかもしれない」という未知への好奇心だけで旅立つことがあるのではないでしょうか?
私の場合、ざっくりした表現ですが、最初の旅に出た20代の頃の動機は「世界って実際、どんなところなんだろう?」みたいな単純な好奇心でした。私は何事も自分でちゃんと体験しないと納得できず、他人から「こういうものだよ」って言われても、「本当にそうなんだろうか」と、思ってしまうタイプで、旅を続けていたように思います。
ただ、そうした“ホンモノ”をひたすら求める日々という実体験があって、現在があると感じています。
真剣に何かを探し、自分が知らなかった “新しい発見” に出会うことができた日々、20代にそんな旅の時間をもてたことは、本当によかったと思います。ただもう一度、同じことができるかと聞かれたら、ちょっと…(笑)。いや、できないですね。2度ほど死にかけたし、全財産失ったり、とにかくいろんなことがあったので。
旅の日々、私はいつも何か新しいもの、その地の文化や自分の血肉となる未知なる知識を求めていました。ただご承知のように、海外に出ると逆に、日本人としてのアイデンティティーを問われる場面に立たされることが実に多いんです。海外の方は日本という国にすごく興味を持って、極東の小さな島国という “未知の世界” について話してくれって、私にせがむんです。その時私は、自分が日本についてあまりにも知らないことに気づかされたんです。彼らが知りたがったのは、“当たり前の日本”。特別なことではなく、この国の “ふつう” を知りたがっているのに、私はそれに答えられなかった。
もがき続けた20代から30代になり、私は日本に戻り、初めて“人を迎える立場”を経験するようになりました。今年、40歳になり、ここでの暮らしも8年目。この地にしっかり腰を下ろしたことで、ようやく「こうですよ」とか、「ここにはこういうものがあるんですよ」と、普通に日本の暮らしを語ることができるようになったと感じています。日本を、そして新潟、“この地”を表現できるようになるには、そこに居を置き、じっくり暮らさなければ分からないことがあることを今、しみじみ感じています。
編集部|
“旅すること” と “住むこと” は全く違うということですね。
桑木野|
今は不思議な感覚で当時の自分を振り返るんですが、あの頃の私は旅を通して何かを学びながらこのままずっと生きていくんだろうな、と漠然と思っていました。きっと日本に帰らずに、私は旅を続けていくのだろうと。心のどこかで「日本に帰りたくない」と思った時期もあったので。
実際、私は “なりたい自分” や特定の職業のイメージはないんです。
今はこうして「里山十帖」のシェフをやらせていただいているので、「職業は?」と聞かれたら、「料理人です」と答えます。プロフェッショナルとして報酬をいただき、誇りをもって日々を生きています。ただ私は20代、30代の頃と変わることなく、自分が求める探究心とか、世界への興味とかを失うことなく、あの頃と同じ気持ちと姿勢で南魚沼で生きています。