『チベット Tibet』
ecogallery Vol.1 2023 Summer

  • インドで成立し、やがて廃れた仏教をチベット独特の感性で到達した境地、“普遍性”。このパーセプションによって、現在、チベット仏教は物質文明に疲れた多くの現代人の心をとらえ、世界的な共感を得ている。すべての生命は平等であり、「前世の業を背負って輪廻を繰り返す」としたチベットの人々の感性では、一匹の蠅も、もしかしたら前世は人間であったかもしれないのだ。
    夏の3ヶ月ほどの間に芽吹くわずかな牧草が頼りの寒冷高地での暮らしは、野生種の牛の仲間を家畜化したヤクの放牧にその全てを頼っている。乳からバターを作り、ヤクの黒毛が編み込まれた頑丈で耐久性に優れたテントを住居とし、唯一の燃料として用いられるのもヤクの糞である。ヤクの餌となる牧草を育くむ植物の腐敗土の層はわずか30センチ足らず、それすらも数百年をかけて形成された貴重な土である。その下あるのは乾き切った砂地、この薄い表土を一度はぎ取ってしまえば再生は不可能、たちまち砂漠化が始まる。
    チベットでは、この極めて繊細な表土から始まる食物連鎖が遊牧生活を根底から支えている。その微視的なつながりから生まれた生命観は輪廻思想と深く結びつき、人々は慎ましく満ち足りた祈りの日々を、世代を越えて受け継いできたのだろう。チベット独特の鳥葬という風習もこの極限風土を生き抜く知恵の一つであると。

  • ラマユル僧院。太古、湖底に分厚く沈殿した泥の層の上に建造されている。
    ラダック|2009年
  • トチャと呼ばれる化粧をした遊牧民の娘。紫外線や乾燥から肌を守る効果がある。
    カイラス|1990
  • 「雪の中の礼拝」

    2002年3月、写真家は中国甘粛省、ラブラン寺に居た。標高3000メートルの厳寒の高地ではその日、新年を祝う大祈祷会「モンラム」が開催されていた。仏教哲学を究める上での重要な二つの経典「スートラ(顕教)」と「タントラ(密教)」、とりわけ「スートラ」の習得においては問答技術が最重要と位置付けられ、試験官の僧との討論試験に勝ち抜かない限り「モンラム」での問答会に参加する資格は与えられない。十余年に及ぶ厳しい修行と学習を重ね、やっとハレの場である「モンラム」の場に辿り着いた僧たちの上にこの日、雪は容赦なく降り続けた。そしてそれを見つめる写真家の上にも音もなく雪は降りしきる。生きる目的をひたすら宗教学の達成とする僧、そして世界に流れるさまざまな時間をカメラに収めようとする写真家、彼らはどこか似ている。

    ラプラン寺
    チベット族自治州夏河県にあるゲルク派寺院。別名はラプラン・タシーキル寺。チベット自治区のゲルク派六大僧院のひとつ。
    ジャムヤン・シェパー一世によって1709年に創建。最盛期は108の寺があり、4000人の僧が学び、活仏も500人を数えたという。しかし、文化大革命で閉鎖され、多くの堂や僧院が破壊された。その後、建物は再建され、チベットのゲルク派寺院では最高レベルの学問寺「世界のチベット学府」と呼ばれている。

    モンラム
    チベット旧暦1月13日〜16 日に開催される(毛蘭姆法要)

    キュレーター 太田菜穂子

  • 体の全てを大地に投げ出す巡礼の姿勢「五体投地」、あたかも尺取り虫のように黙々と身を投げ出す苦痛を伴う修行を行うのは
    一般の農民や遊牧民たち。「現世の罪が消え、来世では良き転生が得られる」と誰もが信じきっている。
  • ヒマラヤ山脈の北側の広大な高原は、大半が農業には不向き不毛の土地が広がっている。
    高原に適応した家畜であるヤクや羊を追うチベット遊牧民のテリトリーとなる。彼らの衣食住、その全てをこの家畜たちが支えている。