~地球の声に耳を傾ける~
エコピープル

2022年冬号 Ecopeople 94桑木野恵子さんインタビュー

4 山に寄り添う暮らし

編集部
ところで、日本の歴史と文化の系譜において世界的に熱い注目を浴びている縄文文化、縄文人たちは基本的に水辺に住まなかったそうです。全ての遺跡が山の中、つまり、海辺や川辺とは危険な場所であると認識していたようです。
私たち現代人は生活水の調達という面で、水辺に居住することは便利と考えますが、縄文人たちの生活スタイルを知ると、私たち現代人も今一度、未来に向かって “戻るべき場所” の基準を再考する必要があるように感じます。ただ、ちなみに世界の大都市はほとんど海に面した場所、水の側、危険な場所に位置しています。山間に住むというのは、日本人のDNAにとっては本来自然なこと、相性のいい場所なのかもしれません。



桑木野
「里山十帖」に来て以来、私は山のことを勉強するようになりました。山に入る時は私の師匠、地元のおじいさんと必ず一緒です。“里山” という言葉を改めて考えると、山の中に里があるというイメージ。私には専門家でありませんが、全国各地の “里山” では人間と野生動物が相互に支え合い、豊かな自然との共存を目指した場所だということをしみじみ感じます。日々、山に入るからわかるんですが、人が入らないと “山が荒れる” という確かな感覚が伝わってきます。
この近くの十日町で、縄文土器の火焔土器が発掘されたこともあり、縄文文化専門家、佐藤雅一先生(*)ともよく話すんですが、縄文人の社会性と思考、その知性は聞けば聞くほど驚くべきことが多くて、あそこまでの感覚と思考を現代人は果たしてもっているのだろうかと感嘆します。

* 佐藤雅一|新潟県津南町教育委員会学芸員 佐藤雅一
https://www.1101.com/masaichi_sato/2019-02-11.html

編集部
本当に。彼らの食材、自然と共存する知恵には驚かされます。

桑木野
こうして毎日、山で暮らすと、「人間は本当に進歩してるのか?」と、考えさせられることがしばしばです。現実、山は決して人間に優しい場所ではありません。山は人間に自然の恵みを与え、共存も可能。ただ、やっぱり怖い存在でもあり、それを人間は決して忘れてはいけないと思います。山を軽視すると、山は人間にとって非常に危険な場所になる。











編集部
桑木野さんにとっての “里山” は、山と人間の双方が歩み寄り、若干の不都合な状況があっても受け容れ、やりくりする共有空間というイメージでしょうか?

桑木野
そのイメージに近いです。山に自生する季節の山菜を想定し、前日にメニューを立てても、必ずしもそれらが手に入るわけではありません。料理はその日に入手したものでつくるべきだし、今日の山の幸でどんな一皿に仕上がるかは私自身の力が問われるシーンです。想定していたメニューが全然違うものになるのはしょっちゅうですし、また 、“ここでは” そうであるべきだと思っています。
スタッフがたまに「なかったんでちょっと買ってきました。」ということがあります。それがキュウリでも、ここでは季節が終わり、畑にないのならば、料理人はそれを受け入れるべきだし、それでいいと思うんです。私がプロであるなら、料理人としてそれをどう表現するかが問われると考えます。






編集部
調達できるもので賄う料理を作るとなると、桑木野さんのレシピを支える上で、発酵食品や保存食品が重要な役割を担うことになりますね?

桑木野
冬は特にそうなります。そろそろ“冬支度”が始まるので、これからしばらく大忙しです。冬場はやっぱり保存食を活用することは多いので。
「里山十帖」は山の中なので、冬場の魚は棒鱈とかが代表格になります。昔は乾燥したものが運ばれてきたそうですが、流通も進み、新鮮な魚が届く時はそれを使うべきだと思います。
前回の大雪の時も流通ラインが止まり、2、3日、外部から何も届かなかったんですが、特に困らなかったですね。まあ魚が手に入らないくらいなので、やりくりできました。
厨房のスタッフには「なんでも買えて当たり前だと思わない方がいい」と話しています。誰もが山奥で暮らす訳ではないとしても、扱う食材をきちんと知ることはすごく重要だと思うんです。ここではメニューに山菜料理がかなりの頻度で登場します。
一番わかりやすい例として、ゼンマイ料理でお話ししますね。ゼンマイは山で採ってきて、下準備の工程後、乾燥、保存します。これを料理するには、乾燥ゼンマイを戻す作業があるんです。が、市販の水煮ゼンマイも簡単に入手できます。ですから調理の選択肢として、採集、乾燥、保存、戻しの全ステップをスキップした水煮ゼンマイ、採集後の乾燥まで終えた乾物のゼンマイ、そして山での採集から始まるゼンマイの3種があるんです。
ただ、私は “誰かの手を介したもの” でないと、その料理が作れないというのは、とても危ういと考えています。“究極の何か” を求めるならば、全ての工程に自分が立ち会い、自分の手を介して仕上げていくことが “食材の本質” を理解する上で重要であり、それが調理する際も最終的に非常に役立つんです。
ところで、ゼンマイにはオスとメスがあって、採っちゃいけないゼンマイがあるんですよ。ご存知でしたか?




編集部
ゼンマイは大好きな山菜のひとつですが、初めて聞きました。

桑木野
この辺りでは、採ってはいけないゼンマイをオニゼンマイって言うんですけど、見た目がとても似ているので一見するだけではなかなか見分けられない。
「あ、それまた採ってる、それはオニゼンマイ!」ってよく師匠に叱られました(笑)。
ゼンマイ採りひとつとっても、1年や2年ではなかなか習得できない。だからこそ、その地に暮らすことで表現できる料理は、世界各地の名だたる郷土料理にも通じる研ぎ澄まされた “何か” になるんだと思うんです。食材処理の全行程を知り、独自の調理法を習得した上でつくられる料理には、“見えない何か” が宿り、料理に力を与えると信じています。









編集部
その感覚は、いつごろから桑木野さんの中で芽生えたのですか?
ヨガを究めていらした頃から?

桑木野
そうですね…、でも自分ではこの感覚を特別なことだと思ったことはありません。
編集部
ある方が「おいしい料理」を一言で定義され、思わず納得したことがありました。
それは「昨日は美味しかったな〜」と翌日も心に残るような料理を、漢字二文字で「残心」と表現されました。桑木野さんの願う “見えない力” が宿る一皿とは、“お客様に届けたい、食を通して繋がりたい” という思いがお皿に表現されているような料理なのでしょうね。






桑木野
料理には、“おもてなしする” 料理人として気持ちを込めたいと思っています。
私が過ごす山の季節の変化や出来事など、さまざまなことをお伝えしたいと思いますが、なかなかそこまでは到達できません。
料理を介してのお客さまとの対話は、まずは相手あってのこと。ここまで足を運んでくださるお客様を心からおもてなしするべく全身全霊を一皿に託し、お客様のテーブルにお届けする。そこまでは丁寧に、誠実に向き合う、ただ、それをお客様がどう感じられるかは、別のことです。
編集部
そういう意味では、技術を磨き、手抜きをしない桑木野さんが主語となる「自」が在り、宿に訪れる「他」が存在する。桑木野さんの料理が表現する “確かな幸せの姿” を私たち旅人は見て、食し、感じ、そのメッセージを持ち帰る。食を通じて、言葉を超えた会話の成立を目指していらっしゃるんですね。

桑木野
20代で世界を旅していた私は、本当に貧乏で無鉄砲なところもあり、各地でいろんな方々に助けていただきました。あの頃は助けてもらう一方で、全く恩返しができなかった。今、当時をよく思い出し、食べ物をくださったり、一緒に心配してくれたり方々に「なぜ、見ず知らずの外国人の私にかくも親切にしてくださったんだろう?」って思います。
2022年秋、私はこの地で山と向き合い、料理をつくる日々を過ごしています。ある意味で恩返しじゃないけれど、当時の私が旅する時間の中で経験した「わっ!」ていう嬉しさとか喜び、幸福感とか新しいものを探究するワクワク感を、「里山十帖」を訪れるお客様に味わっていただきたいと思っています。私は今やっと、誰かに “何か” を与えられるかもしれないという感覚、まさに “幸福” と呼んでよいものを初めて実感しつつあります。
この幸福感をどう表現すればいいんだろう…。この土地で日々、新しい何かを発見し、自然と繋がってる生きている感覚。ここを訪れてくださった方がこの感覚を持ち帰ってくださっているとしたら、それこそが私の幸せです。