水に浸けておくだけの「水出し」ができる昆布出汁は、世界に数ある出汁の中で「最も簡単にとれる出汁」と言われています。
では、「水出し」はできるのに、海の中に昆布出汁が出てしまわないのはなぜでしょうか?
その答えは、昆布から出汁の出る仕組みを知れば簡単に理解できます。
昆布出汁のうま味の元は、水に溶け出しやすいアミノ酸の一種、グルタミン酸ですが、生きている昆布にとってこのグルタミン酸は、昆布自身の体をつくるために必要な物質です。そのため、大切な栄養素が体の外に出てしまうことのないよう、「選択透過性」をもつ細胞壁が守っています。
しかし、昆布が漁獲され、干されるうちに、生物としての活動を終えて細胞壁の働きが失われることで、グルタミン酸は水を介して体外へ流出するようになります。
つまり、昆布が生物として生息している間は、海に出汁を出すことはないのです。
昆布を生物から出汁のとれる食品へと加工するにあたって、一番大切なのは干すことです。「昆布干し」こそが品質を左右するとされ、湿度や天候、取り入れのタイミングなど、昆布の種類や地域ごとに異なる方法で、注意深い手作業が行われ、採取から出荷まで、「六十手数」と言われるたくさんの工程を経て丁寧に加工されていきます。
乾燥した昆布は、長期保存できるようになるのはもちろん、干されている間にタンパク質が分解され、グルタミン酸が増えます。また水分が抜けていく過程で、昆布の表面に表出するマンニットという白い糖質も、美味しさを引き出す役目をします。
ここで、昆布の栄養素を詳しく見ていきましょう。
成分はおよそ炭水化物60%、ミネラル25%、その他、少量のタンパク質と脂質で構成されています。(『日本食品標準成分表2015年版』より)
炭水化物のうち20%は水溶性食物繊維で、アルギン酸やフコイダンというヌメリ成分が腸内環境を整える働きをします。また、ミネラルには骨を作るのに欠かせないカルシウム、血圧の調整、細胞の代謝に関わるカリウム、ナトリウムが含まれており、さらに甲状腺ホルモンの生合成をサポートするヨウ素は、肌の新陳代謝を活発にする作用で、美容面でも注目されています。
最近では、昆布水(「水出し」した昆布出汁)が脱水時の処置に使われる点滴「リンゲル」のミネラル分を含む電解水の成分に近いことから、昆布水を生活習慣病から新型コロナ等の感染症予防まで期待できる「飲む点滴」と評して、積極的な活用を提唱する医師もいます。(監修/総合内科専門医 秋津壽男『免疫力があがる「昆布水」レシピ』高橋書店、2021)
なお、昆布出汁を冷蔵庫で一晩水につけておくだけの「水出し」ではなく、加熱して「煮出し」を行う場合は、温度に注意が必要です。70度を超えるとアルギン酸が溶け出し、雑味となって昆布の風味を邪魔するため、中火弱でゆっくり加熱し、昆布の縁から小さな気泡が出はじめる60度を目処に昆布を引き上げることが、うま味たっぷりのグルタミン酸を存分に抽出するコツです。
前述のうま味の元、グルタミン酸について深掘りしていくと、昆布のグルタミン酸含有量に匹敵するのが、なんと、母乳であることがわかっています。生まれて初めて口にする母乳から、赤ちゃんは昆布出汁と同じうま味を味わっているのです。
昆布出汁は、和食文化の土台を支えるうま味ですが、そのグルタミン酸は、タンパク質を構成する20種類のアミノ酸の一種で、人の体を作るために欠かせない栄養素でもあります。
1970年代にイスラエルの小児科医、ジェイコブ・シュタイナーが興味深い実験を行いました。新生児の口の中にさまざまな味の液体を投与し、その表情の変化を観察するというものです。(Steiner, 1973)
食べ物の基本味、甘味、塩味、酸味、苦味、うま味の5つのうち、赤ちゃんは腐ったもののシグナルである酸味、毒のシグナルである苦味は顔をしかめるなど、嫌がる反応を示したそうです。
一方、エネルギー源のシグナルである甘味、体の調子を整えるミネラルのシグナル、強すぎない塩味に対しては、口に含むと好ましい表情。当然、体をつくるタンパク質のシグナル、うま味も赤ちゃんは好み、安心して母乳を飲んでいることがわかりました。
こうした反応は、赤ちゃんだけでなく動物も同様で、生物として栄養物と有害物質を見分ける本能を備えて生まれてくることが導き出されています。
昆布の国内生産量の90%以上は北海道産で、北海道の沿岸ほぼ全域にわたる海で生産されています。
帆立貝の赤ちゃんや小さな幼魚は昆布に身を守られ、ウニや鮑は昆布を食べて育つなど、昆布は豊かな海を育む海の中の森のような存在として、多様な生物と共生しています。
昨今、世界中で取り組むべき喫緊の課題として、脱炭素の問題が毎日のように各メディアで取り上げられています。その解決策の一つとして期待を集めているのが、昆布を含む海藻類の存在です。
2009年10月、国連環境計画(UNEP)は、アマモなどの海草や昆布などの海藻、植物プランクトンといった海洋生物に取り込まれた炭素をブルーカーボンと命名し、二酸化炭素の吸収源対策となり得る新たな選択肢として、報告書にまとめました。同書によると、海表面の0.2%にあたる沿岸地域で50%の炭素を吸収していること、さらに陸より海の方が多くの炭素(推計値1.5倍)を吸収していることが提示されています。
(参照『海の森「ブルーカーボン」CO2の新たな吸収源』国土交通省港湾局、2021)
昆布はもともと海藻の中でも大きな部類ですが、巨大なものでは長さ50m、毎日30cmものスピードで成長する種類もあるそうです。水に溶けている炭素を吸い上げながら成長し、そのまま昆布の内部に蓄えるため、たくさんの炭素を閉じ込めることが可能になります。
昆布を守ることは日本の食文化を守ること、北の海の豊かさを守ること、そしてブルーカーボン生態系を維持し、地球そのものを守ることに直結しているのです。