よく「『いりこ』と『煮干し』はどう違う?」、という疑問を見聞きしますが、結論から言うと、「同じもの」がその答えになります。一般的に「いりこ」とは、「主にカタクチイワシを煮て干したもの」を指すものの、上記のような名称の違いとして、西日本ではイワシの煮干しを「いりこ」と呼び、東日本では、「いりこ」を含む魚介類の煮干しを総称して、「煮干し」と呼ぶ傾向があります。つまり「煮干し」は、地域によって、トビウオ、アジ、タイ、エビ、イカ、アサリなど、さまざまな魚介類を含むことがあるのです。
そもそも日本各地で使われている「だし」は、北海道では「昆布」「かつお節」、東北では「焼き干し」「かつお節」、関東では「かつお節」「さば節」、東海では「むろあじ節」「さば節」、近畿・北陸では「昆布」や「かつお節」「いりこ」、中国・四国では「いりこ」「昆布」、九州では「いりこ」や「あご(トビウオ)」「椎茸」など、原料の産地や流通、歴史、そして好まれる味付けといった食文化によって、多様な地域性が明らかです。
いりこの生産地といえば、主に長崎県や熊本県を中心とする九州沿岸地域、広島県や山口県、対岸の愛媛県や香川県が面する瀬戸内海、また、三重県や千葉県などの太平洋中部地域が挙げられます。さらに歴史的背景を紐解くと、江戸時代に入る頃から関西でだしとして使われはじめていた昆布やかつお節は、高級品でした。一般家庭では入手が難しかったかつお節の代用品として、いりこが用いられたのは、江戸時代中期からと言われています。
西日本では生産地が近いという地理的条件もあって、安価で量産されていたいりこが庶民の間に普及していきましたが、東日本でいりこが消費されるのは明治に入ってから。それが現代でも、いりこが東日本よりも西日本で浸透している理由の一つのようです。
昆布やかつお節でだしをとる手順と比べると、いりこは事前に頭やはらわたを取り除くなど、下処理のひと手間が必要になります。それでも永らく家庭で使われてきたのはなぜでしょうか?
それは、いりこの栄養素が私たちの体づくりに欠かせないものであるからです。まず注目したいのは、原料のイワシに豊富に含まれているカルシウムです。いりこには100gあたり、2,200mgのカルシウムが含まれています。カルシウムは私たちの骨や歯を形成していますが、食生活の変化でカルシウムの摂取量が減ると、体内で必要なカルシウム量を保つために骨を溶かし、補充することで骨粗しょう症を引き起こしたり、また、ストレス症状の緩和にもカルシウムが使われるため、ストレス過多な現代人のほとんどがカルシウム不足と言われています。体の成長著しい青少年から、ストレスフルな働き盛りの壮年、転倒が大きな怪我につながりやすい年配者まで、全世代にとって、日々の食卓にのぼる味噌汁等で継続的にカルシウムを摂取できるいりこは、欠かせないものなのです。
その他、活性酸素を分解する鉄分や、血液や筋肉を作るタンパク質の含有量が多いのも特徴ですが、忘れてはならないのが、いりこのもつ旨味、イノシン酸です。イノシン酸は動物性の旨味で、生のカタクチイワシにも含まれているものの、水揚げ後、時間の経過とともに酵素の働きによって減少してしまいます。いりこへの加工過程で、生魚をすぐ煮ることでイノシン酸の分解酵素の働きを止め、さらに干すことで水分量を減らして旨味成分をいりこの中に凝縮し、より栄養価を高めることが可能になります。煮干しは、生干しと比べると、なんと11倍ものイノシン酸を確保できるとされています。
いりこが味噌汁のだしとして使われることが多いのは、味噌の栄養素とも関係しています。味噌の原料である大豆タンパク質には、植物性の旨味成分であるグルタミン酸が多く含まれているため、いりこのイノシン酸(動物性)とかけ合わさって、旨味に相乗効果が生まれるからです。
いりこの生産現場に目を向けてみると、全国トップの生産量を誇る長崎県では、近年、温暖化の影響で東シナ海の海面水温が上昇していることなどから、この10年カタクチイワシの漁獲量が減少し、さらに漁場と連動して稼働している加工業者も施設の老朽化や後継者の減少、働き手の高齢化などで、最盛期に比べて半減するなど、深刻な問題を抱えています。
他方、「伊吹いりこ」で有名な香川県のいりこ生産者の間でも、温暖化や海の貧栄養化等による魚質の低下が嘆かれていますが、瀬戸内海系群のカタクチイワシの資源量は、1980年代後半から一時期、減少傾向にあったものの、近年は横ばいで安定しています(水産庁公表データより)。
これはカタクチイワシの資源保全のために、近隣県で連動して、漁獲する魚のサイズや漁の許可期間を定めるなど、資源管理を行ってきた成果です。全国各地の漁業の現場では、漁場によって、資源状況を調査・評価しながら持続可能性を測定して生態系への影響を割り出し、管理システムを定めるなど、古来から現代まで、限りある水産資源と向き合ってきた人々が受け継ぐ知恵が見られます。
いりこだしを食卓から消さないために、未来を見据えたサステナブルな取り組みが、今日も続けられているのです。