~地球の声に耳を傾ける~
エコピープル

2023年冬号 Ecopeople 98箱瀬淳一さんインタビュー

©︎ Takashi MUKAI

1 輪島と漆

編集部
英語の辞書には漆を“lacquer ware”の他に “japan, Japanese Lacquer”という訳語も記載されています。漆が、古くから日本を象徴する工芸品という評価を得ていたからだと想像します。高い芸術性が評価されてきた日本の漆器ですが、中でも輪島塗は別格の地位を確立している印象があります。その理由は何だと思われますか?

箱瀬
漆製の生活用具はアジア各地でつくられ、存在しましたが、日本の漆が別格の地位、しかも国名と冠した「japan」という呼び名を得ることができたのは、安土桃山時代の南蛮貿易の結果です。日本にやってきたポルトガル人やオランダ人は、金銀で描かれた蒔絵や螺鈿が施された漆器を大変気に入り、ヨーロッパに持ち帰り、これが日本の漆器の主流となり、“japan(ジャパン)”と呼ばれるようになったようです。よって、「japan(ジャパン)」と呼ばれたのは、漆全般ではなく、華やかな蒔絵漆器を指しています。
編集部
なるほど、「ジャパン」と呼ばれる漆は蒔絵だったのですね。ただ、最古の漆は日本から発見されたと記憶していますが?

箱瀬
日本では、縄文時代(紀元前14,000年〜前300年頃)から漆を日々の暮らしの中で活用していたことが、既に解明されています。日本最古とされる漆は、ここからも近い、福井県鳥浜貝塚で発見されました。朱色の櫛、それに石器の鏃(やじり)として、枝に固定する際の接着剤にも使われていたようです。

Special courtesy Van Cleef & Arpels
©︎ Masatoshi MORIYAMA



日本における漆の歴史と文化|May 2022 Highlighting Japan
政府広報オンライン


編集部
漆器が一般的な日本人の暮らしの中に浸透し始めたのは、いつ頃だったのですか?

箱瀬
戦乱の世が終わり、ようやく日本全国に平和が訪れ、徳川幕府による治世が200年以上続いた江戸時代になってからのことです。幕府が各藩に課した政策でもあった産業振興、とりわけ加賀藩では藩主の前田家が学問や文芸、産業の育成や奨励に熱心だったことは、非常に大きいと思います。
編集部
確かに加賀には多様な名品、金工、加賀友禅、九谷焼、漆器、輪島塗があり、そのいずれもが独自の存在感で、現代にまで継承されていますね。
品目だけでも他藩と比べると多岐に及びますし、そのクオリティーも抜きんじているように感じます。

箱瀬
藩主である前田家の振興政策はもちろん多大な影響力があったと思いますが、これに応えることができた加賀人の気質も大きかったと僕は思います。
全国各地に残る、共同体の相互扶助の生活ネットワーク「結」(ゆい)。ここ、能登では「い」と呼んでいますが、田植えや屋根葺き等、一時的に多くの労力を必要とされる作業があると、村や部落の住人が結集し、労力、資材、時には資金も負担し合って、お互いに助け合い、支え合って完成させるというメンタリティーです。この「い」の精神は、今も根強く息づいています。
例えば、漆芸技術の継承においても、それぞれの匠たちは自身の持つ技術伝授に非常にオープンですし、弟子たちがより高い技術を習得するために、他の匠の元へ修行に行くことを奨励してきました。さらに、近隣の漆産地の山中(加賀市)に大きな発注が入り、手が足りないとの知らせが届くと、輪島の職人が山中まで応援に駆けつけるなど、お互いに切磋琢磨できる環境がありました。
半島の突端にある輪島が、常に技術の進化に敏感に対応でき、世の中の進歩に遅れを取らなかったのは、「い」の精神性が大きく影響しているように感じます。

Special courtesy Van Cleef & Arpels
©︎ Masatoshi MORIYAMA






編集部
人の流通が常にある交通の要所とは異なり、辺境とも言える半島の突端に位置する輪島が、漆芸のトップランナーとして走り続けることができたのは、「結」の精神と進取の精神で“ものづくり”に向き合っていたからなのですね。ただ、製品を買う側、“マーケット”との関係はどのように築いていたのでしょう?

箱瀬
半島の突端の港町、輪島。ここには二つの圧倒的な強みがありました。一つ目は、ここから20キロ余りの場所に大本山総持寺があったこと。二つ目は北前船という、日本全国に繋がる海の大動脈があったことです。
まず一つ目の大本山総持寺。明治時代の災禍による大伽藍の消失を期に、総持寺本院は横浜市鶴見に移転してしまいましたが、往時は「曹洞賜紫出世第一の道場」として隆盛を極め、全国に16,000余りを数える末寺を傘下とする曹洞宗の修行の地でした。各地から訪れる修行僧たちは、それぞれの故郷の寺に帰る際、輪島の漆器を必ず持ち帰り、その高い品質と美しさを伝えたことが、輪島塗の評判を全国区に導いていったのです。

曹洞宗大本山総持寺祖院

大本山總持寺祖院
正式名称|諸嶽山總持寺
創建|元亨元年(1321年)創健者|瑩山紹瑾禅師
翌元亨2年夏禅師に帰依した後醍醐天皇は1322年夏、綸旨を下し、總持寺を勅願所として「曹洞賜紫出世第一の道場」と定めた。
明治31年4月13日の災禍により七堂伽藍の大部分を焼失。これを機に布教伝道の中心を神奈川県横浜市鶴見に移転する。その後、祖廟として次々に堂宇が再建され、山内約2万坪の境内には焼失をまぬがれた伝燈院、慈雲閣、経蔵などのほかに七堂伽藍も再建された。山水古木と調和し、風光幽玄な曹洞宗大本山の面影をしのばせ、一大聖地として現在に至る。



箱瀬
そして二つ目。輪島が江戸時代の経済の大動脈、北前船の寄港地の一つだったこと。輪島の塗師屋(分業するそれぞれの職人たちを統括する立場の人)は自ら商品を携え、船に乗り込み、問屋を介することなく、全国各地の顧客の元に赴き、製品見本を見せ、製品の魅力を語り、直接注文方式で受注を着々と増やしていったのです。

北前船公式サイト

編集部
なるほど。輪島漆器は現代的なビジネスモデル、消費者と産地が直結する“ダイレクトライン”を江戸時代に展開していたのですね。さらに日本各地のトレンドを察知するのみならず、全国での価格コントロールもしていたということですね。

箱瀬
当時も手間暇かけた輪島漆器は高価でした。武家や商家などに商品を持ち込む行商人は通常、勝手口から入るものですが、輪島の漆商人は別格、堂々と正面玄関からお屋敷に伺うことができたと聞き及んでいます。
顧客の方々も輪島漆器を購入する家柄であることを、周囲にも見せたかったのかもしれませんね。

Special courtesy Van Cleef & Arpels
©︎ Masatoshi MORIYAMA